プログラマyasuhoの隠れ家

某ソフトウェア企業に勤務するおじさんプログラマyasuhoです

捨てる勇気を持つということ


ポケコンのアプリを書いていて、気がついたこと。

昔のゲームは面白かった


って、今でもよく聞く言葉だよね。


多分に懐古とか入ってるんだろうけど、今までは「限られたハード・ソフト資源の中でいろいろと工夫するから」とか「作ってる人たちに情熱があったから」っていう、何となく漠然ととらえてた気がする。


いや、それ自体が違ってるとは思わないんだけどさ。ポケコンっていう本当に限られた環境で作ってたら、もうちょっと具体的なイメージが見えてきた気がするんだな。まあイメージなので、実際の現場とは違うと思うけどね。

昔のハード・ソフト環境だと


出来ることは限られている。最初は「こんなことをしよう」「あんなことも出来るようにしよう」って考えていても、すぐに壁に突き当たったはず。それは表現力だったり、容量不足だったり、ハードの制限だったり、とまあいろいろあるんだろうけど、まあとにかく壁なわけだ。


そこで制作者は考える。「これは出来ないけど、こうしたらどうだろう」「ここは本当に必要かな」「ここ、どうにか実現できないかな」など、いろいろ悩むわけだよね。


数え切れない取捨選択をするうち、だんだんと本質的な部分だけが残ってくる。と言うより、おそらく必然的にそうなる。限られた資源でちょっとでもムダや冗長なことをすると、それは目立つから。それは逆にいい部分が目立ちやすいということでもある。


黎明期のゲーム機はカンブリア紀よろしく、大量のゲームが量産された。もちろん駄作も多かったが、多くの良質なゲームも多かったことは皆さんご存じの通り。もっとも、今は売り上げが激減してるのに制作費が増えてるといった理由などからチャレンジなことがしづらいのかもしれない。

そう考えていくと


これってゲームに限らず、ソフトウェア開発全般に言えることのような気がしてきた。


組み込みなど一部の環境を除いて、多くのソフトウェア開発では機能追加はあっても、削除することは少ない。それは「こんなの出来る?」とか「こんなのあったらいいよね」とか、わりと気軽な提案が多かったりする。それらに対してデザインや実装に対する議論がされることはあっても「本当にそれが必要か?」っていう議論はあまりされない気がする。


機能の多さをウリにした、最初どうしていいか分からないソフトを多く目にしてきた。ハードの性能に関わらず、ソフトウェアに大事なことはバランスであると思う。言われるままに追加するんじゃなくて、それは本当に必要なものなのか。見極めることも大事ではないかと思う。


映画や小説などでダラダラと何時間も見せられる、しまりのない作品があったらどうだろうか。決していい気持ちはしないと思う。


ぼくの大好きな細野不二彦さんの「あどりぶシネ倶楽部」より:

私たちが作ってるのは「映画」であって「映画の記録」じゃない。そして一本の映画の中でワンカットのフィルムが生きて輝ける場所はおのずと限られていて・・・
その場所も与えられず、ただスクリーンにのせられただけのフィルムなんて不幸だと思わない?


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