プログラマyasuhoの隠れ家

某ソフトウェア企業に勤務するおじさんプログラマyasuhoです

「守る」じゃなくて、「闘う」プログラマに


それゆけ西表島さんの日記から:


http://daxanya.ameblo.jp/entry-cc67f559effc7e2bb267aace09d6e698.html

コツを掴んで、似たようなプロジェクトばかり請け負っていると、失敗しなくなり、失敗しないから皆その人に頼むようになり、だんだん技術的に先細りになっても、仕事のあるうちはそればっかり請け負って・・という悪循環で技術的についていけなくなってしまうのかもしれない。


ああ、自分が恥ずかしいです。
プログラマ長くやってると、だんだん慣れてきてしまうのです。
勘どころというか、そういうのが働くようになってきて、どのくらいの力でやればいいか、なんとなく分かるようになってくるんですよね。
失敗しないということは、自分の力がついたということもあるかもしれないけど、それより守りに入っている、というところが大きいような気がします。


ぼくが最も成長したと思えたのは、もう20年も前のこと。
初めてUNIXカーネルを移植した時のことだ。
UNIXどころかOSのなんたるかも全く分かっていなかったあの頃は、本当に失敗の連続だった。
まわりに詳しい人がいるわけでもなく、なんだかよく分からないまま、苦労の連続であったことを覚えている。
時間的にも納期を大幅にオーバーし、まわりからのプレッシャーから、精神的にもつらい日々を過ごす。


だが、気が付くと、まわりの誰よりもカーネルについて詳しくなっている自分がいた。
それまで駆け出しプログラマだったぼくは、それをきっかけに、自分に自信を持てるようになっていく。
単なる技術的な知識だけではなく、自分自身の成長を確かに感じる時だった。

過去に失敗していたら、きっと今は成長しているだろう。失敗は成長の糧である。1年間失敗せずに無難に過ごしていたら、今はもしかすると全く成長していないかもしれない。


ほんとにそうだと思う。
失敗して、苦労してこそ、成長があるのだ。
無難に過ごした時に、成長を感じたことはない。


だが、最近はどうも無難に過ごすよう、変に賢くなってしまっている気がしてならない。
歳のせいかもしれないが、無意識に守りに入ってしまっているようだ。
大きな失敗はしないけど、大きな成長もない。


以前プロジェクトXでトロンの特集をした時、坂村先生の言った言葉がある。

闘うことをやめたら、独創性じゃないんですよ。独創性ってのは、闘った後に出てくるんです。


ぼくも「守る」じゃなくて、「闘う」プログラマになりたいものだ。